大義の各章は、歩兵第○○聯隊第○中隊長杉本五郎中佐(当時大尉)が、部下青年将校指導指導のために綴られたものであるが、同時に又、これが、子孫乃至は後世青年への遺言書であることは、その緒言に依つて明かである。首章より第四章までは、昭和十一年八月廿五日に書き上げられ、其の後、一章乃至数章宛を書き綴つては、青年将校の指導に当てゝをられたのである。
かくして第十六章まで書き進められた時、会々今次事変勃発し、昭和十二年八月一日、中佐も愈々出征されることゝなつた。中佐出征の際、常岡大尉は、陣中にあつても大義の章を書き続けることを懇々中佐に奨められ、中佐、亦、生のある限り必ず書き続けることを誓はれて、勇躍征途に就かれ、途中少佐に進級、中隊長の儘、戦線に向はれたのであつた。其の後一ヶ月余、中佐よりは杳として何の便もなかつたが、九月十四日の朝、九月六日附の部厚の二通の封書が、編者の手元に届けられた。蓋し、常岡大尉出征の場合を慮られて、編者宛送られたものと思はれる。開封して見ると、一通には第十七章第十八章、他の一通には節十九章第二十章が、夫々封入してあつた。而して次の如き手紙が添へてあつた。
拝啓愈々捨身の時機到来と存じ居り候。(中略)神 武天皇御東征に比すれば極めて容易のこと、 皇國のため奮闘進兵の決意に候。只今午前二 時三十五分出発迄に二時間有之候。文意整はず何卒御推察の程願上侯。生前の御指教厚く厚く御礼申上候。吾が児等又復御厄介と相成ることゝ存じ居り候。先生御健体愈々御自重御奮 闘の程遥に懇望其事に御座候。紙もなきまゝに支那人のものに書き流したる次第に御座候。 敬白
九月六日午前二時四十五分
杉本五郎九拝
中佐の戦死の報を得たのは、それから五六日の後であつたが、思へば、九月十四日丁度中佐戦死の当日にこの遺稿が編者の手元に到着したのも奇しき因緑である。
中佐が大義四章を書き綴られたのは、長城線の戦が終り、部隊が懐来城内に暫く滞在してゐた時であつた。当時、中隊長として種々軍務に忙殺されて居られたにかゝはらず、十七章以下四章を書き綴られたことは、如何に中佐が大義の至誠に燃えて居られたかと云ふことを物語るものである。当時親しく中佐の身辺にあつた岩村少尉・上田准尉及当番兵前川一等兵の直話に依れば、大義の章を書かれるのは、大抵皆が寝静つてからであつて、いつも午前一時・三時頃迄かゝつて書いて居られたと云ふことである。而して、これを書かれる時は、既に戦死を決意して居られ、従つて全くの遺書として書き綴られたものなることは、前記の書翰及び第二十章死生観の最後の橘曙覧先生の歌に依つて明白である。大義二十章は実にかくして出来上つたものである。
緒言は、出征前に令息への遺書として書いて置かれたものであるが、その緒言中にもある如く、中佐は、大義に透徹せんがために我執を去る手段として、禅道を選ばれた。
中佐の禅は、禅のための禅ではなく、飽く迄殉皇精神鍛錬のため禅であり、大義に透徹せんとして我執を去るための禅であつた。
されば、大義の章の中に多く禅語があり、仏教的言句のあるを以て、直ちに中佐の思想未だ日本精神に純粋ならずと為すものあらんか、そは硜々たる蛤的神道者流か、若くは偏狭なる日本主義者と云はねばならぬ。大義の章の一言一句は、実に生命がけの修行に依つて悟得された殉皇大義の誠心より迸り出でたるものであり、しかも其の言を更に実践躬行、死の瞬間まで行(ぎやう)し続けられたものである。其の点、世の徒に言説のみ巧にして、実得実行なき軽信慢心輩の日本精神の書物などとは凡そ根本からその類を異にするものである。読者諸賢、徒に中佐の偉徳を称することを止めよ。
中佐の英霊が無窮に皇基を護ると云ふことは、決して単なる観念ではない。
それは、中佐の精神を継承し、中佐の精神を実現して行く者が、永久に絶えない事実の謂ひである。されば、自ら殉皇の行を行することなくして、徒に中佐の徳を称へても、それはむしろ中佐を冒涜するほかならない。くどいようではあるが、大義の章を公刊するのは、中佐を譛めて貰ふためではない。中佐の如き殉皇の大士の続々として出で来らんことを冀ふほか何物もないのである
昭和十三年二月十一日 編 者 識