中佐は曩に大命を拝し今次事変の聖戦に向ふや、緒戦より之に参加し、長城山岳戦料子台の戦闘を始めとして北支各地に転戦、到る処偉勲を樹て「死之中隊」として名声を博し果敢勇猛を謳はれ、長駆敵を追うて山西省に入るや、山西の要衝蔚閣山高地の攻略に於て常に陣頭に立ちて肉弾以て敵陣に突入し、勇戦奮闘遂に北支の華と散る。
中佐は突撃敢行直前、敵前数十米の地点に於て、子孫の為に遺訓を書き遺して曰く「汝吾ヲ見ント要セバ尊皇ニ生キヨ。尊皇ノアル処常ニ吾在リ」と、中佐にして始めて此の言あり、尊皇に生きて遂に尊皇に忠死す、宜なる哉。「大義ノ章」は其緒言にある如く子孫の為に書き遺したるもの、悲願二百章の遺稿を志し出征半歳前に稿を起し、出陣するや兵馬倥偬の間依然之を続稿しありたるものとす。
惜むべし遂に中途二十章にして絶後す。然れども中佐の全精神既稿の全篇に溢れ、共透徹したる誠忠の大信念、澄み切つた其心境は溌剌として全章に躍動す。
是れ血と肉とを以て綴れる大文章にして悉く尊皇に溢れ大義に漲る、真に活教訓として永く世道人心を作興せしめ、国民覚醒の一大警鐘と謂ふも過言にあらざるべし。則ち一家の家宝として私蔵するを許さず、茲に河野氏に依り上梓して江湖に頒つ所以なりと謂ふ。
中佐は資性極めて純真淡泊且つ剛毅の士にして、決して現今通俗に唱へらるゝ右翼者流に非ずして、尊皇絶対を基調とする公正なる思想の抱懐者なり。
而して中佐は一身の安固栄達を望まず、凡て大義に依りて一身を律し、果敢断行気力絶倫にして凝つては百錬の鉄と為り鋭利をも断つべしの意気に燃え、全身是れ膽、常々皇國の前途を憂ふること洵に深く、殉皇の大義を信奉し、終始一貫誠忠を実践し閲年大義の為に心身を砕き、毎に楠公父子を究め只管楠公の大精神を信条と為し、日夜研鑚修養怠るなく、早くより禅道を極め、又剣道の真髄に達し、所謂剣禅一如の境地に到達し、言動一致の快男子として衆より畏敬せられ、部下の訓育に当りては悉く殉皇大義より発せざるはなく、当に其正気天地に満ち何事も焼き尽さゞれば熄まざるの気概を以て文字通り一切を超脱して、真に滅私奉公の範を垂れり。
殊に中佐最後の心境は純忠無雑にして、常断両頭を裁断せば一剣天に倚つて寒しの悟道に透徹したるものと謂はざるべからず。
不肖公私十年間の知己として茲に生前の人格武徳、特に純忠義烈鬼神をも哭かしむる
其壮烈なる戦死を偲び、英霊に対し謹みて衷心敬弔の意を表し以て序となす。
昭和十三年三月十日
陸軍記念日 石 田 義 顕