静かな夜だった。
降り注ぐ雨音だけが静寂に響いている。
静かな雨夜は「私」は嫌いだ。こんな夜は、何故か人生の意義を考えてしまうから。仕事を終え、居を構えるアパートに戻った「私」は、窓際に座りながらただ黙然と外を眺めていた。
窓越しに見える、スラム化した区画の寂れた街並が雨に濡れている。路地裏で汚い毛布にくるまりながら震える子供を見かけたが、それに何の感慨も受けなかった。それは、この死にかけた街では日常茶飯事な光景だから。
この世界は力が全てだ。
強い奴だけが支配する権利を持ち、弱い奴に与えられるのは、敗北という名の死だけだ。それは子供といえど例外ではない。
そう、この世界は力が全てなのだ。
力が無いと、必然、奪われる側へと堕ちる。「私」はというと、奪う側に位置している。力が在るから。力が在ったから。
『力こそすべて』
昔、何かの本で読んだことがある。それが、悪魔の不文律だと。
ならば「私」に力が備わっていたのも不思議ではない。悪魔は存在自体が既に力で、その悪魔の血を「私」は宿しているのだから――
自分の中の悪魔を自覚したのは、いつのことだったか。
幼い頃に親を失った「私」は、なぜ親を失ったのか覚えておらず、一番最初の記憶は病院のベッドの上からだった。その後は親戚の家や施設をたらい回しになり――気がついたら独りになっていた。
まだ幼く、力のない「私」は、毎日生きる事に必死だった。強奪や恐喝はもちろん……必要ならば殺人もした。そうやって命を繋いで日々を生きてきたのだ。
そしてある日、スラム街ではお決まりのパターンといえばそれまでだが、好色そうな男に襲われた「私」は、そのとき初めて自分の中の悪魔を自覚した。
涙で滲む視界に、突如飛び込んできた鮮烈な血の赤色。遅れて倒れ込んでくる、首を失った男の死体。それを成したのは、「私」の裡に宿っていた人ならざる力だった。
その時はもうワケが分からず、ただ震えながら血に濡れた自らの体を抱いていた。理解不能な力に対する恐怖と困惑と、男の死に対する昏い歓喜とを胸に感じて――
その日。
「私」の中の悪魔が産声を上げたのだ。
そうして成長し、自然と踏み入れた闇の世界で生きていくうちに、この街にわだかまる絶望に誘われて現れた本物の悪魔とも遭遇を果たした。
闇の命を得た操り人形。
仮面に憑依した死神。
実体ある影の獣。
ソレらを相手に死線を潜り抜け、その数だけこの世に在らざる闇に触れた「私」は、唐突に理解した。
後悔。
哀惜。
絶望。
大きな疑問。
怒り。
戸惑い。
そのすべてが快感であること――
以来、「私」は殺しの依頼を率先して引き受けてきた。今晩もまた、仕事で人を殺した後だった。人を殺し、命を奪い、その死に触れるだけ「私」の渇きは潤う。確かな快感を覚える。それが、魔の血を宿す者の宿命であるかのように。そうやって殺して殺して殺していくうちに……時折「私」は悦びと同時に虚しさを覚えた。
何故?
殺しに対するもっともらしい憂鬱を感じたからだ。こんな「私」にも人間の部分が在ったのだ。顔も覚えていない親のどちらかが人間だったのか、いずれにしても何にしても、「私」は人間でもあったと理解した。
何故?
何かを感じるという事は、自分には心があるのだと気づいたからだ。悪魔には心がない。「私」には心があった。当たり前の感情を持つ、人間と同じ精神構造をしていた。しかし、自分が半端者だったという事実は、なおいっそう「私」の痛みを増長させた。
それは何故?
悪魔は泣かないからだ。
感情を高ぶらせて流れ落ちる涙は、他人を想う心を持つ人間の特権であり、証明なのだ。
ゆえに、昏い欲望のままに人を殺す悪魔としての生き方を選んだ「私」にはもう、涙を流す事など、出来はしない。人の死を重ねすぎた「私」にはもう、そんな特権も証明も、在りはしない。
ああ、だけど。
おこがましくも、人間として生きたい「私」が、まだ残っている。温かな想いから涙を流してみたいと、密かに息づいている。過去と決別し、悪魔ではなく人間として新たな人生を歩み始めたいと、切実に訴えている。
それに気づいてしまったから、「私」は痛みを感じているのだ。
自分が自分で在る限り、過去を切り捨てる事は出来ないというのに――
窓際に座って憂いの海に沈んでいた「私」は、部屋から飛び出してアパートの屋上に移動していた。理由は特にない。強いて言えば、何故か雨に濡れたかったのだ。目を閉じ、雨に濡れながら夜空を仰ぐ。
今夜は静かな夜だった。
降り注ぐ雨音だけが静寂に響いている。
こんな夜は、何故か人生の意義を考えてしまう。いや、考えさせられると言うべきか。だから「私」は静かな雨夜が嫌いなのだ。こんな夜は、泣けない「私」にとって、辛くて、哀しくて、苦しくて―――そして少し優しいから。
静かな雨夜に「私」は泣く。
降り注ぐ雨が、涙のように「私」の頬を伝っていった。