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 私の出身は北海道の、それも東端の小さな田舎町だ。北海道と言えば、広大で自然豊か、食べ物がおいしい、といったようなイメージがまず真っ先に挙げられるだろうけれど、北海道の真に利点というべきところは、その暮らし易さにある。

 一年を通しておおむね空は青く、空気はべた付かない。寒いと言っても、住居は最初からその気候にこれでもかと言うほど対策をとっているので、冬でも建物の中にいる分にはこっちにいるよりもよっぽどあたたかい。さらに、虫が少なく、小さい、というのも忘れてはいけない利点だ。

 私がなぜ、突然こうして故郷に対する懐古にふけっているかと言えば、それは、隣の芝に移動してみてから前にいた芝の方が青かったことに気がついたみたいな、ありきたりな後悔が理由ということになる。

 まだ夏にもなっていないというのに空気がべた付いて気持ち悪い。空は雨模様を変えようとしない。初めて経験する梅雨はひたすらに不快だった。扇風機とパソコンのファンが競いあうようにうなりを上げている。そんないつもの静かな夜、この七畳という狭い部屋での一つの出会い。

 今にして思えば演出過多のようにも思えるけれど、窓の外は滝のようにごうごうと雨が落ち、暗闇を反転させるカメラのフラッシュのような雷光が時折光って、遅れて雷鳴を轟かせていた。

 視界の端で何かが動く。

 首をひねって視線を移すと、クリーム色の絨毯に黒い点が落ちていた。

 私は目を凝らす。思考が止まった。

 地元では、未知の存在として恐怖と畏敬を一身に集めていた生物。願わくば一生出会いたくはなかった私の空想上の恐怖。

 生活に慣れ、忘れたころに訪れた突然の出会い。

 ここからは思考が停止しているので、私の行動を心情描写を交えずに淡々と語ることになる。

 私はまず、反射的に隣にあったクッションをつかんでその生物に叩きつけた。クッションをめくるとその生物は高く飛び上がって、私の背丈ほどもある姿見に張り付く。私はクッションでそれをたたき落とす。

 直感でそれでは通用しないと感じた私は、転がっていた通販の段ボール箱をつかんで振りおろした。

 二回、三回と、それを繰り返して、ようやっとその生物は動くことをやめた。

 感情がようやく動き出す。心が少しずつ波打ち始めた。証拠に、私は少しふるえていて、同時に不安と疑問がじわじわ沸き上がってきた。私は初めてその生物と出会ったのだから、それは当然の感覚だ。

 私はその生物を携帯電話のカメラで撮影し、『これ、何だと思う?』という文面を添えて友人に送信する。その間にティッシュごしにその生物の足を摘んで机の上に移動させた。その生物のとげのついた足はまだピクピクとうごめいていておぞましかった。真っ暗な押入の中で不意にネズミにふれてしまった時のような、鳥肌が立つ生理的な恐怖は未だ続いている。

 しかし、私の心臓は早鐘を打つようにけたたましく鼓動していた。なぜだか私は、嫌悪感を感じるのと同時にわくわくもしている。

 返事はすぐに返ってきた。『おまえ、それ、どう見てもゴキブリ』

 私はその文面を見て納得する。部屋の中にゴキブリがいる。最悪の状況だった。ゴキブリを一匹見たら、何十匹もいる証拠だとか、寝ている間に部屋の中を飛び回るだとか、あながち眉唾とも思えない怪談じみた話を聞かされていたので、私はこの上なく不安になった。気持ち悪くて仕方がない。家具を全部ひっくり返して、隅々まで掃除機をかけてやりたい気分だった。

 しかし最悪の状況だったけれど、同時になぜか僕は高揚していた。

 恐怖によって身がすくむ。緊張によって肩がこわばる。理解できない状況に、思考が止まる。おぞましさに鳥肌が立つ。こういう体の反応を、こういう心の反応を、僕はこっちに越して来て、初めて深く実感した。

 久しぶりに、生きている感じがした。

 考えてみれば、こっちに越してきてからの三ヶ月の生活は、地元でのルーチンワークをそのまま引き継いだように代わり映えのしない日々だった。やらなければと思う自分と、変わりたくないと思う自分との間で毎晩、自己嫌悪に忙しかった。

 要するに私は、このゴキブリとの戦いを経て初めてこの土地に生を受けたのだということだ。ならば、こいつは僕の生みの親と言うことになる。

 そんな親などまっぴら御免だけれど、そう考えるとなんだか少し、愛おしく思えてきた。だから、机の上でピクピク足を動かすゴキブリに一度合掌してから、窓の外に放り投げる。

 生きてくれとは思わない。むしろもう、二度と会いたくないけれど、生かしてくれてありがとう。

 心の中でお礼を言って、私はドスンとイスに座り込んだ。とても疲れていた。

 それでも高揚は収まらず、鼓動は私の胸を内側から打ちつける。雨の音が心地好い。雷が美しい。つかめそうなくらいに空気に質量があって、青臭いにおいが風に乗ってやってきた。

 実感する。私は生きていた。それを知った。

 この瞬間に、私はついに引っ越しを終えた。晴れてこの世界の住人となり、小さな町の七畳で生きることを今、始めたのだった。  

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